『ふるさとの歌』(1925/溝口健二)覚書2021/8/31

 2のラストで青年が都会の学生となって同窓生と再会し、こいつは小学校では優秀だったんだよと友人に紹介されるシーンの後に馬車を操る青年のショット、このシーンは好きだな。青年の夢オチ、なんだかサイレント映画っぽくない?

 しかしラストの茶番はなんだかなあ。青年が都会に被れ帰郷してきたかつての同窓生に都会を田舎に持ち込まないでくれ、こっちには大切な農業があるんだと説教演説をして皆が彼に賛同し手を取り合う、これはまだ良いとして問題はその後。

 中盤で川に溺れた子供を助けたらその時の親が学校のお偉いさんで彼を援助すると申し出るという浦島太郎的な話、これもまあ良い。昔は養子の文化もあったことだし。

 そして問題のシーン。青年は是非を問われると先日の演説で絶頂している自分のモンタージュ、そして青年は申し出を断る! モンタージュは素晴らしいとして、ここで断っちゃあいかんでしょう。絶対に。恥を一生背負って学業の道に進まなければならないんだ彼は。所詮彼の学業に対する情熱はその程度で、結局田舎の生活に飽き飽きして倶楽部に一目散に駆け付けた田舎娘らの方がまだ可愛げがあるってもんだ。おんなじじゃねえかっていう。

 尺と製作上の問題、そして脚本そのものがコンクールの受賞作を溝口が撮っただけだらか文句言っても、というか溝口自身が文句垂れていただろうけども、これはいかんでしょう。映画なんだから。ドラマは常に矛盾を孕んでいるものだ。生まれ育った美しい大地を耕そう__なんて自分に負けただけじゃないか、何自分の恥を国のためだとか言い訳をしているんだ。成程確かにそういった意味では青年のリアリズムを的確に捉えているとも言えよう、若いなんてそんなもんだ。青春は脆く弱い。

 しかし映画でしょう、これは。青年が見送られるプラットフォームにかつての同窓生と鉢合わせして、「農業はどうした?」だとか「あの時の涙を返せ」だとかボコボコにするべきなんだ。それでも学業の道を進むんだと立ち上がる彼の姿こそ観客を鼓舞するんじゃないのか? 少なくともラストの美しい大地を耕す~というテキストよりかは。

『甘い生活』(1960/フェデリコ・フェリーニ)覚書2021/8/30

 アヌーク・エーメのシーンは全部良いな、流石に強すぎる。冒頭、キリスト像の空輸、ヘリの音越しの聞こえぬ声。フェリーニの映画はこの聞こえざる声をジェスチャーで読み取るような__ラストでも同じように声は届かない。フェリーニは我々に訴える、しかしヘリの雑音や距離の遠さを隔てて。フェリーニは我々に参加を訴えただろうか? イメージへの参入を? 我々が自らフェリーニの映画へ入って行くことを彼は待っているのか?

 男は銃を撃つようにしてキャメラのフラッシュを切るが、作家の夢を諦めきれずに居る。記者の仕事にはもううんざりだ。男への救いの手、君さえその気になれば出版社を紹介しよう__原稿はないというのに。

 男はカフェでタイプライターを打つが、店の少女との会話に脱線、ついにタイプの紙を捨てる。

 クライマックス、酔った男がメチャクチャに暴れる、そう『8 1/2』より祭りをやっているじゃないか雨のシーンであったり。フェリーニはしっかりクライマックスまで上げて来るんだ、それもアクションによって! そう、フェリーニは映像そのものによって、つまりアクションによってクライマックスまで上げてくるんだ、これは中々簡単にできるもんじゃない。

 ラスト、あのタイプ用紙を捨てたカフェの娘と対岸越しにジェスチャーを送りあうが互いの声は届かない、男は去り少女の顔のクローズアップで映画は終わる。冒頭のヘリの音と同じく、何かによって何かが隔たれている。

 少女の瞳はかつてのフェリーニ自身を見たか? 『8 1/2』よりこっちのが自伝的と言えるんじゃないか?

『戦火のかなた』(1964/ロベルト・ロッセリーニ)覚書2021/8/29

 ネオレアアリズモとは一体何だったのか? 戦火を劇で再現し、それにニュース映像をモンタージュさせたか? 素人を演出したとして、役者を演出するのと何が違うのだろう?

 冒頭、爆撃から始まるがこれはロッセリーニが制作し演じられたものだろうか? それとも単にニュース映画のフィルムを拝借しただけだろうか?

 『ドイツ零年』よろしく破壊された街でもキャメラを回すこと、このドキュメンタリー性こそが"ネオレアリズモ"なのか? いいや違う、モンタージュだ。ロッセリーニはドキュメンタリーではなくモンタージュの人間である。彼はリュミエール派ではなくメリエス派なのである。

 『無防備都市』のかの有名な倒れる女のモンタージュ、そして本作のニュース映像と劇映画のモンタージュ__最後の一遍なんかはかなり露骨な、悪く言えばロッセリーニの最も嫌うアメリカ映画的な戦闘なのだが冒頭と一遍が終了する度にモンタージュされる記録映画によって、あたかも劇映画がニュース映画かのような錯覚を起こす。

 確かにそれは面白い試みであるが、かなり危険というよりむしろ現代においてはマスメディアにより悪用され尽くされている。モンタージュ、人間の脳はとてもおバカなんだな、だからこそ映画を観て楽しむことができるんだけれども。

 2編目、黒人憲兵が人形劇(日本だと文楽?)で暴れまわるシーンは面白い、日本は映画も芸能も静かに鑑賞する文化だけども向こうじゃ全部スポーツ観戦のノリなんだろうか。日本人が大人しいというより言語そのものの特性による所が大きい気がする。

 3編目のラストの兵士がアドレスの書かれた紙を捨てるシーンは良い、よしんばかつての彼女がそこにいたとてもう彼女は変わってしまった、そして誰でもない彼自身が変わってしまったのだ。待つ女のショット__素晴らしい。

 一番好きなのが5編目、修道院の中でユダヤ教徒プロテスタントが混じっているとナチスなくとも迫害が始まるというこの皮肉。兵士のもてなしに対する謝辞で終わる。 

『宮本武蔵』(1944/溝口健二)覚書2021/8/28

 武蔵がクソでかい一本松(杉?)の下で刀を洗うシーンと「小次郎は武蔵の鏡」というセリフ、ラストの「心の伴侶とする」ってセリフが良いくらいで他は凡。

 外でのチャンバラで武蔵を追うキャメラ、奥に歩いてくシーンもそうだけどキャメラがとにかく追って行くのがどこかヌーヴェル・ヴァーグっぽい。外ロケだし。

 しかしこれといったことがないな、クライマックスの小次郎との対決もあっさり終わってしまうし冒頭の説教が反復されるだけで(剣に邪念が云々みたいな)、巌流島を取り囲む船はちょっと豪華だけれども流石に溝口のやる気がなさすぎる。

 1944年だからやろうと思えばやれた筈で、本当に溝口は国策映画はやりたくなかったんだな。あのクソでかい大木の下で刀を洗う武蔵とバックの滝のシーンがあるのが救いで、他は本当に凡。溝口の貴重な時間をやる気のない映画に割かれたのが惜しい、それから得られるものも多少はあったろうが。

『キートンの探偵学入門』(1924/バスター・キートン)覚書2021/8/27

 キートンの身体性のコメディに勝てるものが他にあろうか? ベタすぎるギャグもキートンの身体性によって超一流品となる、彼が作家でなくて誰が作家なんだ?

 冒頭、床に散らばったゴミ山に1ドル札を落としたという人が二人来る、キートンは泣く泣く自らの1ドル札を差し出す。三人目に男が来る、彼にも1ドル札を差し出すと彼は首を振り受け取らない、男はゴミ山を漁り財布を取り出すとなかから大量の札束が。男が立ち去るとゴミ山を一心不乱に漁るキートン。王道コント。

 バナナの皮を床に投げ、恋敵にこっちに来いと手招きするキートン。彼はやって来ない。キートン彼のもとに向かっていく、ここでバナナの皮を踏んで滑るんだが一回転して皮が宙を舞い吹っ飛んで行くんだな。この身体性の威力はとんでもない、これこそ活字が成し得ぬことだ。観客のイメージを身体性が超えること。

 列車の接続付近に立っているキートン、後ろから列車が接続しギリギリで避けるキートン、いくらなんでも危なすぎる。上に上がった踏切の遮断機の頂点に捕まり降りてそのまま車に乗り込むだとか、走る列車の上を走り接続部を飛び越え水槽のパイプに捕まり降りると水浸しになるだとか、彼が監督であるから誰も文句は言えないけども危なすぎる。こんなんやられたら誰も勝てっこないよ。

 バイクのハンドル部分に乗って爆走するのもクライマックス付近の線路を渡るシーンなんかはコマ撮りっぽいけど砂をかけられるシーンとかはマジで運転しているだろうし、身体性もさることながら逃げるキートンが男の開いた鞄に飛び込んで消えていくトリックショットだとかしかけも凄い。映画内映画という設定を守ってセットが剥き出しなのも楽しいし、もうこの時代で映画は確立されてしまっているんだな、本当に。

 キートンベストの声が多いのも納得、『キートンの大列車追跡』(『キートンの将軍』)においてはモンタージュのギャグ(例えば大砲のくだり)が主流でこれも一流なんだが、本作のギャグは身体性に留まり、映画そのものを横断する、映画内映画のモンタージュ__スクリーンそのものが舞台と次々に入れ替わるお楽しみ、しかしこれらは物語の語りの機能の一つにすぎず、はっきり言ってどうでもよいと言ってもさしつかえなかろう。本作のラスト、映写窓越しにスクリーンと目線を交わすモンタージュ__これはとんでもない。

 多くの優れた映画は物語の内容そのものではなくモンタージュによって、モンタージュそのものの演出こそが輝いているものだ。それは『折鶴お千』の宙を舞う折鶴であったり、『山椒大夫』の水面に広がる波紋であったりする。

 しがない映写技師のキートンと、スクリーン上のヒロインの視線が映写窓をプリズムとして交差する。これは感動した、全米が泣いたとはこのモンタージュの別名である。

 北野武はまず一つのシーンが思い浮かび、そこにどう持っていくかで映画を組み立てて行く。本作はその頂点に位置する作品ではないか。この素晴らしき視線の交差。

 

「映画というのは実際は、物にそそがれる、各瞬間ごとに新しい視線のことなのであり、したがって映画は、物に働きかけるというよりはむしろ物を刺し貫き、物のなかにあって抽象化されることを待ち受けているものを捕獲するのである」p123『ゴダール全評論・全発言Ⅰ1950-1967』「古典的デクパージュの擁護と顕揚」

 

youtu.be

『女性の勝利』(1946/溝口健二)覚書2021/8/26

 「あなたは負けちゃったのね、生活に負けちゃったのね、生活から逃げちゃいけないのに、生活は闘わなくちゃいけないのに」このシーンの長いこと長いこと、カットを割らない! 一回奥に行ってもまた前に戻って来る。

 夫が事故に遭ってからというもの、もの売りでなんとか生活をたてる女学校時代の同級生は夫に先立たれると不安から子に手をかけてしまった。この告白を静かに聞く田中の顔がもの凄い。

 弁護士の田中は法廷で女性は家庭の神話によって男に従属させられていると告発する。ボーヴォワールの『第二の性』より三年も早く溝口がやっているじゃないか!

 まあGHQの意向諸々ありきではあると思うしかなり説教チックなのも否めない。ルノワールだって『自由への闘い』を撮ったしチャップリンも『独裁者』を撮った訳で。

 田中は姉の夫の検事のおかげで弁護士になったんだけど、その義理で今回の裁判では折れてくれないかと持ち掛けられる。姉も彼女に頼み込むが田中はそんなんだから女性がいつまでたっても自立できないと一蹴する。といっても彼女だって元はと言えば彼のおかげで飯を食えている訳で、じゃあ姉が一人で生活を立てるとなると……その辺りは現代においても全く変わっていないね。

 間違った義理や人情は義理でも人情でもなんでもないとし、田中は闘う。ラスト、休廷中に姉は実家に戻ることを決めたことと病に伏した彼氏がとうとう亡くなったことを同時に知らされる。休廷時間が終わり、歩く田中の正面のショット、終の文字。

 例えばこれを判決までやってしまえばそれこそ説教映画なんだが、カットして問題提起してとりあえずの物語内(人物)の問題を片づけて終わるのは良い判断じゃないか。戒めではなく、切断としての説教。

 まあ説教臭いってのもわかる、弁護人がいきなり彼女でなくて社会が悪いって言い出すんだもんね。実際にやったら皆ポカンでしょう。でも映画なんだからこれは、むしろ映画でやるんならそうするべきですよ。説教装置としての映画の可能性、プロパガンダ映画? 歴史の授業? ジガ・ヴェルトフ集団?

 田中の愛人もムチャクチャな人だったなそういうえば、というか戦後ってもう滅茶苦茶だなそりゃそうでしょう戦争やったんだから。

『イタリア旅行』(1953/ロベルト・ロッセリーニ)覚書2021/8/25

 ファーストショット、走る車の先頭に置いたキャメラがガーっと移動している、もうこのショットから面白い、次に左の車窓を過ぎ去る景色のショット__至福!

 二人の会話、マジでこれ『勝手にしやがれ』じゃん。後ろに男が一人の三人乗りのシーンでジャンプカットっぽいのがある。

 流石に男と女と車で一本の映画が撮れるは言い過ぎなんだけども(もう一台車を用意して前から後ろの二人を撮らないといけないし)、しかしイタリア旅行そのものが面白いんだな。映画はかつてそこにあった現実を記録する。劇映画も同じくかつてそこで演じられた現実を記録している訳だ。同じようにイタリア観光もかつてそこにあった現実である。面白い現実を作り出すのではなく、面白い現実そのものを記録するということ。

 構成も見事だ、美術館や骸骨寺、イオン現象のお楽しみまでどう持っていくか。結婚生活の破綻をきっかけとして二人をクロスカッティングで分けてしまう。と二人それぞれの旅行を描くことが可能に。

 というか室内の演出もロッセリーニめっちゃ上手いんだよな。冒頭のパーティーの目線、「楽しかっただろう?」「いいえ」とかこの辺り上手すぎる。バーグマンが窓際に立っているシーンで夫が船に乗っているショットのモンタージュも抜群にきまっているし、夫が女を帰してからホテルに帰宅した際のタロットをしまったりわざと電気を消すバーグマン、夫が用もなくもう一度バーグマンの部屋を訪れたりと演出が上手すぎるんだロッセリーニは。電気をつけるつけないをここまで面白く演出出来る監督他に居るか?

 離婚を決意した二人、予期せぬ足止め、事故が二人を再生させた。見物人の目が面白い、抱き合う二人をジロジロ見ている。そして流れる人、人、人、冒頭の車窓からの景色と同じように、人が横に流れて映画は終わる。

 クライマックスで人込みに流されるバーグマンが振り向いて手を伸ばすショトはレネが『二十四時間の情事』で模倣している(?)。

 それにしても美術館とか火山のイオン現象は映像として面白すぎるんだな、室内の演出なんかも素晴らしいし。面白い現実を面白い演出家が記録したらそりゃあもうとんでもなく面白いですよそりゃあね。