『映像の発見=松本俊夫の時代』Ⅴ+トークに参加した 2020-11-22

 8時 起床。なんでこんな早く起きてしまったんだ、二度寝する。

 11時 目覚める。ビーフンを作って食べる。

 12時 池袋コミュニティカレッジへ。

 13時30分 『映像の発見=松本俊夫の時代』Ⅴ上映。長回しで数十分カットも変わらず延々と松本俊夫が問いに回答を続ける。たまに彼の実験映画を挟んでまた語る。

 16時30分 トークショー開始。監督の筒井武文、ジャズ評論家の泉秀樹、ムサビ教員榎本了壱のお三方。泉氏が何度も同じ話を繰り返すのを榎本氏がわざとらしい高笑いでごまかしていたのが印象的、もちろん内容はかなり濃いのだけれども。

 質疑応答で松本俊夫松本俊夫たらしめるものは何であったかと尋ねると、彼は大変明晰な人間で計算の上でカオスを演出し、その明晰故の弱点と映画における無意識らすべてを計算尽くであったとⅠ~Ⅳで彼自身が説明していた内容を反復した回答を頂いたが、私は数少ない前日の上映会参加者三人の内の一人なのだが。しかし最後に松本はフランス等の海外滞在中にLSDで感覚の拡張を行っていたとの回答を頂いた。これは大変貴重な証言で、勿論松本のモナリザ等サイケな実験映画の演出はもうみるからにソレそのものなのだが、私はそれすらも彼の計算の手中に収まっていたのではないかと内心冷や冷やしていたのだが、彼はしっかりLSDを摂取していたようで一安心。

 榎本氏は彼は非常に稀有な人物で、実験映画やったと思えば劇映画をやってと批判に晒されつつも活動を続けた、他の分野ではまず松本俊夫のような人物は居ないと言う。

 彼の言うように、そして先日の上映作品内でも説明されている通り例えばジャン・コクトーのように芸術ジャンルの横断はみられるが松本の場合のように思想の横断ともいうべきか、ただ小説も詩も監督も俳優もやる、というのではなく松本はただ映像内に限って縦横無尽に奔走する、しかしゴダールともまた違った__それらを‘‘時代‘‘の一言で説明してしまえば簡単なことだがしかし60年~70年代にかけて同時多発的にネオレアリズモを契機として映画の、映像の革命が巻き起こったことは非常に興味深い。榎本氏は口調が柔らかく場のムードメーカーのような役割を果たしており、好印象を抱いた。

 泉氏は何度も昔の映画好きといえばジャズ、演劇、小説、詩となんでも好きだった、それが映画好きというものだったと熱弁していたがビートたけしの20代前半のジャズ喫茶にたまるフーテン時代がまさにその時代で、実際彼の著書では私の全く知らないジャズミュージシャンの名前がいくつも載っていたりする(ビートたけしのみんなゴミだった)。前衛映画についても多少言及されており、浅草の下町っ子な側面とカウンターカルチャーの田舎者魂の両極にたけしは強い影響を受けたと記されている。

 19時20分 トーク終了。先日の上映会は参加者が私を含めて3名であったが本日のトークショーでは10名前後と中々の伸びに驚いたが、終了時に実は先日からの通し組以外は何かしらのコネがあると判明。Ⅴの上映途中に私の右隣に座って来た女子大生と思われる彼女は本作の監督筒井氏の務める藝大大学院のゼミ生であることが発覚。私はこれに絶望した、何故かの藝大大学院に通っておられる優秀な彼女が上映中にスマホの画面を幾度とチラつかせ、そして先日の上映会に参加することなない程度の低い意識の持ち主で、尚且つだるまの生まれ変わりのような母を連れて参加したとみられる。筒井氏は彼女を泉氏に「この子ゼミの教え子なんですよ、50年代のアングラ映画を研究しているので資料を見せて下さい」と紹介していた、彼女は丸眼鏡に黒のチョーカーといかにもそれといったコスチュームを身に纏うが、やはり根底はペテンであった。

 私は絶望した、真の探究者が先日の三人であるということに。我らはただ映画のファンらしく黙って帰るが彼女らは社交が目的でないか! 私は絶望した、私がまた零れ落ちてしまったということに。私はいつも網目から抜け落ち、社交の場に限らず、社会のある種の連帯体制、つまりは政治的な派閥から抜け落ちてしまう、いわば与太郎のようなポジションを知らず知らずの内に演じてしまっているのだ。

 私はあの名画座の、誰一人として、いや大多数が黙って一列に並び行進し分裂するあの名画座最終回の後のアスファルト道がなんと愛するに値するものかしみじみと乾燥しきった皮膚病の傷跡を抉るあの耐え難い風のように、私の性根を、実在を肯定し内包するのだ。そこには真の意味での、社交としての‘‘ゲーム‘‘を抜きにした連帯が存在している。私は一刻も早く愛する我が故郷へ帰りたいがための一心で帰宅を急いだ。

 21時30分 夕飯からの入浴。明日は朝からヴェーラなんで早く寝なければ。なんだか今日はかなりナーバースになってしまった、睡眠時間が不足しているのだろうか。