『拾った女』(1953/サミュエル・フラー)覚書2021/7/22

 形式美__そう、ある意味でかなり美しい映画。冒頭の電車がラストでまた電車、このセリフなしのト書き皆やりたい奴ね。スタイリッシュで__んでキャメラもそう、小津はこう見るとかなりハリウッドの形式のキャメラを日本でやっているとわかる。この規律、二つの視線、キャメラ

 よく蓮見が二人の視線が交わっているのを同時には撮れないと言うけども、本作を見せる方が説明が早いだろう。というよりフラーの(フラー初見だが)リズムなのだろうか? この”二つ”のキャメラポジションを往復するというのは。特にあのスパイかと男が彼女を疑う下の港(小屋)のシーン……ここのリズムが素晴らしい。女の顔、男の顔、また女の顔、男の背が映っていて__の反復、モンタージュとはこのこと!

 そう、映画は”モンタージュ”である。言語である。それが本作を観ればフィルムの実体例としてありありと体感することが出来る。この反復のリズム! それは死んだ時間、断片を生き返らせる呪術である。俳優を文字通り”固定”し、演技を反復させ、第二のポジションで今度は反対に女が演じる……といった具合に断片をフィルムに収め、モンタージュする。

 しかしフラーはとんでもない。女を突き飛ばし、蹴り上げるこの運動!!!!! からのバン、と銃撃のモンタージュ。女、倒れる。そしてクライマックスの電車、得意のスリでチャカを抜き盗ると……またもや運動に次ぐ運動!!!!!!! 改札をグルンと一回転して階段から引きずり落として殴り合い、ホームに落ちてってまたボッコンボッコンぶん殴る、これは凄い。運動で形式美を破壊し物語を終わらせる__そしてラスト、チャカを盗んだな、どうせ30日で、女「賭けてみる?」初のフラー、恐るべし。

 このリズム、形式、暴力、運動、そしてモンタージュ……映画とは何か?