『愛怨峡』(1937/溝口健二)覚書2021/7/23

 Youtubeにて鑑賞。

 男が暴れ、警察署から引き取られた帰り道、港を歩く二人を横移動のキャメラが追う。カモメのモンタージュ、そう列車の車窓の景色も車内とのモンタージュがある。若旦那が隠れるようにして漫才を観るシーンもそう、1シーン1カットではなくモンタージュの反復がある。

 二年の省略がある。男が父に連れ返され、彼女はすっかり変わっている。女手一つで坊やに仕送りを送らにゃならんし、自分の暮らしも立てなきゃならん。酒の哀しさ、誰が呑みたくて呑むだろう? 私事だが呑まぬのは生活上の不便がない、いわば親の保護下に生きる若旦那と同じである。しかし彼女は彼に捨てられたことで、そして親となったことで、護られる存在から護るべき存在へと変わっていった。

 変容、それは自ずから生じるものだろうか? それとも一種の災難であろうか? 受難とも言えようか。

 義太夫というものの基本は愚痴である。世界一汚い声で唸る愚痴を、三味線で彩る芸である。講演「義太夫がわかるようになる」*前編 小山觀翁撰集 - YouTube

 芸人、漫才の背負う業。甘坊ちゃんにその苦みはわからんだろう。相方は彼女の子を想い殴り込み、彼女は彼の愛を理解し若旦那の家へ戻るも、またもや彼の父がやって来る。そして若旦那はもうどうしようもない程の甲斐性なしなもんで、父に一切立てつかない。見かねた彼女は子を連れ飛び出す、追う若旦那は父に呼び止められると立ち尽くしてしまう__そして二人の漫才舞台、あぁ終わってしまう……終。

 しかし漫才のシーンは驚いた、クライマックスはここじゃないか? 凄い。そして溝口のリズム、切るかと思えば回して長回しかと思えば切って__ここなんだよな、つまり映画監督のセンスというのは。それも編集でなく、撮影のリズム、フィルムのリズムを刻まにゃならんのだ。