『折鶴お千』(1935/溝口健二)覚書2021/7/26

 Youtubeにて鑑賞。

 初期の溝口はキャメラがよく動く、というよりかなりアメリカ映画の技法を積極的に取り入れているように感じる。パンでカットを割ったりであるとか、日本家屋を横移動でカットをつないだりだとか、セットを三回のパンで回っていったりであるとか。

 それにしても一時間過ぎの警官騒動を終えてからのお千の単独ショットはどれも異常に美しく素晴らしい。そして折鶴を飛ばすモンタージュ、ラストのお千の幻覚のモンタージュ……初期の溝口はこんなにも楽しい映画の遊び心に溢れていたとは!

 本作も『滝の白糸』と同じく時間の省略を経て二人は再会を果たす。映画、いや物語の形式__映画は、小説は、創作である。二人の男女が数年越しに再会する、果たしてそんなことが現実において起こり得るだろうか?

 しかし、映画では、小説では、物語では、再会する。再会せねばならない。なぜなら創作であり、時としてそれは現に起こり得るのだし、人には時を超越する夢があるのだから。物語の形式、制度の美に従うこと、縛られること、そして逆らうこと。後期の溝口は徹底的に縛るようになった、解放の美__