『帰りたくない―少女沖縄連れ去り事件』書評

 文庫版を図書館で借りて読んだ。文量がそこまで多くないので私にしては珍しく二日か三日でサクっと読み終えることが出来た。

 本編を読み終えブログに書こうと考えていたことが、全て文庫版の角田光代による解説に先に書かれてしまっていた。まあ本作を読んだ読者は大抵同じような印象を受けるだろうが。

 本作の肝はその構成に尽きる。前半は犯人・山田の独白(弁明)の視点のみによって事件の全容が語られる。彼からすれば、自分は虐待されている10歳の少女を救うヒーローであると。そして後半の裁判過程において、山田は自らの行為の正当性を示す場が得られたことに胸を躍らせるのだが、(ある意味でこれは正しい。もし山田が精神病院へ強制入院の措置を受けたとすれば、弁明の機会はおろか裁判そのものがブラックボックスと化すのだから)無残にも検事によって山田はロリコン趣味の変態野郎である事実を暴露され、当の逃避行においても繰り返し猥褻行為が行われたという。

 実に読み物としてよく出来た構成である。しかし真に注視すべきものは、そうした構成にせざるを得なかった現実世界そのものである。読者が山田に裏切られたのと同じように、著者は彼の猥褻行為を法廷において初めて知ることとなる。

 この"裏切られた"体験の苛烈さは想像するに難くないだろう。なにしろ彼から千二百枚にも及ぶ便箋を著者は受け取っていたのだから。そして解説においても語られているように、読者である私たちもまた、著者と同じく山田の描いた理想郷の酔いから目を覚ますこととなる。山田と同じように、どこか誘拐事件が逃避行として美しいなにものかであると錯覚していた、或いはそう願っていた自己を発見するのだ。

 ノンフィクションのルポタージュが読み物として耐えうるには、ここまでの事件・事故に遭遇せねばならないのか。そして追わねばならないのか。

 作家は書かざるを得ない出来事を描写する。記者もそれは同じであろうが、しかし本作の著者のように、ルポライターという立場はいわば野次馬・後乗りであって、ゾラのそれとは決定的に違う。が故の苦悩を想像する、それは単に取材の足への気苦労と、それを生業に飯を食うことへの同情のようなもの__私のような怠け実家子供部屋住まいには到底務まることではないだろう。本作の登場人物にしてもそうだ、私は彼らからすれば産まれた時点で明らかに"恵まれて"しまっているだろうし、勿論私にもいくつかの持病があったりとハンディはあるのだが、少なくとも両親からの愛情は満たされている__私なら真っ先に自殺しているだろう。いや、案外彼らのように逃げ出したりするものなのだろうか。いやそれでも逃げるんだろう。生きるために。生の苦悩を感じた一冊。