『チェンジリング』(2008/クリント・イーストウッド)覚書2021/8/7

 役者の映画、アンジェリーナ・ジョリーの顔、涙を流し、希望を掴んだ彼女の顔__イーストウッドの演出力。『ミリオンダラー・ベイビー』然り彼はどう役者に役をつけているのだろう? ニコラス・レイと共通する疑問。演じるとは?

 シネマスコープの現代映画、これもしっかり撮れている。画面サイズを理解した適切なショット。デモのシーンなんかはシネスコ故の贅沢である。

 初めて「息子」と出会うシーン、彼女は彼を拒絶する。何故なら彼は息子ではないから。警官は言う、あなたは動揺しているだけだ、と。しかし違うのだ、本当の息子ならわかる筈だ、何故なら母親なのだから。

 これを映画でやるのが良い。小説(文)でやるのとでは効果が全く違う。人は対象を見る。キャメラも同じように、しかし機械的に見る(捉える)。この不確定さ__私が見ているものは一体? 即ち幻影である。彼は彼女を脅迫する、絶対に違っているのに。まず私は母親であるし、身長も歯も違うと証拠があるのに。それでも彼らは脅迫する。

 この辺りの不確定さを映画で効果的にやっているのが『寝ても覚めても』だろう。まあ未見なんですけども(は?)。

 なんとなくニュアンスが伝われば幸いなのだが、つまり何が言いたいのかと言えば彼女が精神病院で受けた脅迫と同じようなことで、確定している事実を脅迫・催眠等によって捻じ曲げられてしまう人の脆さ__そして映画そのものの物語の不確定さというべきか、つまり"私"が今目にしているものは何か、というある種の強迫観念のようなもの__ムルナウは映画で人を救う医師であったかもしれないが、彼が用いたのは催眠療法ではなかったか? 映画において"物語"とは一体何なのか?

 犯人についての深堀りを避けた(キャラクターとして)のは賢い選択だろう。つまり陳腐な精神異常者の錯乱であるとか、そいういう軒並みな犯人像のアイコンとして糾弾せずにあくまで事件の犯人そのものとして留まらせたのだ。

 希望__生きているかもしれない、と。信じ続けた不確定が、不確定であると確定された希望、それは祈りを許されるようなものだ。死亡という事実が確定してしまえば、祈ることさえもままならないのだから。いや、それは祈りではなく願いかもしれない。

 二時間半の尺、シネスコ、全て納得の出来、贅沢な環境を贅沢に使い倒した至福の映画。これは文句なしでしょう、何よりもラストの希望を掴んだアンジェリーナ・ジョリーの振り向いた表情__このショットが全てだ。素晴らしい映画、そしてイーストウッドの演出。