『祇園の姉妹』(1936/溝口健二)覚書2021/8/8

 縦の構図。そりゃ祇園を撮るんだから当たり前と言えば当たり前なんだが田の字を、細い路を向こうからこちらに歩いてくる。

 しかし溝口はやっぱりコントだね、"面白い"映画を撮っている。バルザック的と呼んでも良いものだろうか。コント__つまり神の視点。そう、小説と同じように映画にも二つの形式がある。つまり、キャメラは第三者(神の視点)であるか、又は誰かしらの登場人物の眼であるか。映画は時としてそれが混ざる、というよりも小説と違いその境界もかなり曖昧で、むしろそれこそが映画を映画たらしめると言えもするだろうが__本作はもっぱら神の視点が続く。

 ラスト、床に運ばれて行くおもちゃ一行は格子の向こうへ行き見えなくなる。そう、キャメラはあくまで神の視点であってそこに透視の能力はないのだ。ならば冒頭の二人のお参りで動くキャメラは一体? 二人の動きを追尾するキャメラはまるで幽霊のようだ、歩いた分だけキャメラも同じようにして動く。これを映画の文法の一言で片づけてしまって良いものだろうか? 何故キャメラは影のように、登場人物のアクションに合わせて移動するのだろう。

 例えば向こうから人が歩いてくる。それを正面から捉える際、このキャメラが後ろに彼女が歩いたのと同じ分だけ後退することはない(勿論する場合もあるが)。のくせに、彼女がある程度こちらのキャメラに近づいてくると今度はキャメラが切り返し、歩く彼女の後ろ姿をこれまた固定されたキャメラで捉える。キャメラが彼女を追尾し移動することはない。もっぱら固定で切り返すだけだ。何故だろうか?