『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016/ケン・ローチ)覚書2021/8/9

 過剰な演出、誇張された演出。ここまでしないとパルム・ドールは獲れないのだろうか。本作で賞レースを勝ち抜いたからこそ『家族を想うとき』を撮ることが出来たと考えれば多少なりともその演出にも意義が見い出せるだろう。つまりトリュフォーの言う"本質を得るための逃避"である。映画監督は立派な仕事であり、映画もあくまで興行にすぎないのだから。映画を取り巻く形態の本質は100年前から何も変わっていない。

 しかし、ここまで誇張が必要なのだろうか。私はケン・ローチの演出そのものを悲観しているのではなく、彼にそこまでさせた実社会の方に絶望しているのだ。疲弊し、麻痺しきってしまった社会。余りにも過剰な人口は生産に向かい進むしかないのだ__。

 クライマックス、トイレに立つダニエル。これもかなり過剰な演出だ。しかしこれも同じく"本質を得るための逃避"である。彼のキャラクターからして、彼の履歴書を観客に提示するには彼を殺すしかなかったんだな。これに対しての文句はない。

 水商売の小屋へダニエルが訪ねるシーン、これも過剰な演出だ。やりすぎだ。そもそも彼らが役所からの帰り道、並んで歩くシーンからしてそうだ。全てが過剰で、誇張に溢れている。

 本作では主人公ダニエルの移り行く社会への"不適応"が描かれているのに対して、『家族を想うとき』においてはむしろ社会に"適応"した家族が描かれる。しかしそこに漂う悲愴感は本作と比べ物にならない程深く、暗い。そこにはダニエルの落書きに対する大衆の賛同・或いは反乱のような"お楽しみ"は一切ない。

 ダニエルは市民として、マトモに生きてきた。彼は王様は裸だと告発する子供のようなもので、彼のような正直な人間がホームレスになると職員は説明する。それでもダニエルは告発する、失業保険を得るための求職活動は無駄であると。実際、それが無駄でしかないことは職員もわかりきっている。それでもシステム、規則なのだから、何より収入が途絶えてしまう__職員はダニエルを説得する。

 私のような、いや、多くの市民は裸の王様に目を伏せるだろう。適当にオンラインで求職活動の記録を残し、最低限の努力で手当てを受給するだろう。しかしダニエルは違う。何故なら王様は裸なのだから。人は彼を笑うだろうか? そして彼女を笑うだろうか?

 映画としてのフィナーレでダニエルは市民から喝采を受けるが、はたしてそれが実社会においてあり得るだろうか。勿論これは映画である。むしろそうあるべきだ、過剰に、誇張してこそ映画だ。しかし大衆のデモ活動すらも嘘くさい現代において(いつの時代に純粋なデモがあった?)そこにユートピアのような儚い夢を、つまり絶望を見出さざるを得ない。過剰に誇張した演出が着地するのは絶望に他ならないのだ。

 私は、そしてケン・ローチは裸の王様に目を伏せる人間だ。例えそれが偽装で、つまり"本質を得るための逃避"であったとしても。ダニエルは死に、我々は生き延びた。

 しかし忘れてはならない。我々もいずれダニエルのように、スマートフォンやインターネットを使いこなせないような"不適応"な人間に追いやられることを。時間の流れが我々をそうさせるのだろうか。それとも何かしらのイデオロギーが作用しているのだろうか。しかし、我々が王様に目を伏せたのと同じように、ダニエルを見殺しにしたのは紛れもない事実である。