『捜索者』(1956/ジョン・フォード)覚書2021/8/15

 デビーの生存を確認した後の白髪の爺さんの顔のショットとクライマックス前、崖の上でのジョン・ウェインの顔のショットが美しすぎる。その後のおっちゃんの顔のショトも素晴らしい。というか全編美しすぎるんだ、あまりにも。

 初めのショット、ドアが開いて(逆光)外の景色__もうフォードの映画が始まっている。そして人物が並び、ジョン・ウェインが帰還する。この圧倒的な多幸感。

 はて、映画における多幸感とは一体何か? 例えば『サンライズ』における結婚式のシーンや床屋のシーンの多幸感はショットそのものというよりはシチュエーション、つまり語りによる比重が占めると思われる。

 しかしフォードのこの冒頭の人物が並んでいて__というショットそのものから起因する、ないし我々が導かれ誘発される"多幸感"とは一体なにか? それはかつてそこにあったとされるもの、先祖の観たとされる景色を世代を超越し我々が目にすることで流れ行く歴史の中に我々は生きている、という実感を享受する喜びなのだろうか。この多幸感という奴は? それは写真・絵画がもたらすものと何が違うのだろうか?

 『静かなる男』もその点素晴らしい。多幸感に溢れている。もう溺れてしまうほど。

 いや、これはフォードの語りのテクニックによるものかもしれない。中盤、物語はマーティンからの手紙を追う形で語りは進行する。街で待つローリーが、手紙を追ってリアクションする訳だ。これはかなり小説的な語りでしょう。

 しかしそんなことはどうでもよくて、雪であるとか、冒頭の岩々、野を駆ける馬、そしてクライマックス! 馬の隊列の疾走にもうワクワクしっぱなしなんだな、そしてウェインがデビーを追っかけてって__抱きかかえる! 「家に帰ろう」これのどこが差別的なんだタランティーノは、恥を知れ。そしてドアが閉じて__始まりのショットで終わること! 素晴らしい! そう、映画ってのは頭のショットで終わるべきなんだよな……素晴らしい映画。バカでかいスクリーンで観たい。新文芸坐辺りで。