『雪夫人絵図』(1950/溝口健二)覚書2021/8/16

 心の亭主と身体の亭主がバラバラの女は引き裂かれ、身を投げた。心の亭主が言うように、そしてラストの女中の叫びと同じように__彼女は生きねばならなかった。彼女は何も知らずに死んでいった、いや、彼女は何も知らされずに死んでいった。ここに溝口のイデオロギーに挟まれる女、という構図が確認できる。

 後の『武蔵野夫人』ではこれが逆になるというか、女の側が身体を護り、男を拒むんだな。僕の身体を受け入れないってことは愛してないってことじゃないか! いいえ、いけません、それでは夫と同じになってしまいます、と。これってかなりキリスト教的というか信仰的な愛だよね。

 しかし本作では彼女の身体はしっかり旦那の味を覚えているという。いや文学って本来こういうもんだよね、今の時代にやるとなれば中々難しいというか違ってくるんだろうけども。でも本当の意味での多様性ってこういうのを許容することなんだろうけど……。

 しかしデュラスが言うように文学はスキャンダラスでなければならないとしたら、本当の意味で"多様性"なるものが実現した世界で果たして文学なんてものが、芸術が成立し得るだろうか。本作の官能性もただある出来事の一つとして埋没してしまうのだろうか。現代の芸術の衰退はその辺りにありそう。ボードレールが言うように美は相対的な要素からなっているものだから難しいね。

 彼女は自分を殺した、なぜ身を投げたか? それは他でもない、旦那の身体に負けた自らの身体を殺す為に。彼女は心をもってして身体を殺したのだ。

 それでも彼女は生きるべきなのだ、幸せにならなければいけない。心の亭主が言うように、夫婦を立て直さにゃならんのだ。子供が出来てしまったのだから。

 ここで旦那とお雪の立場が逆転するのが面白い、生を宿しされた女が死へ向かい、捨てられ裏切られ全てを失った旦那はお雪を求め生きる。しかし彼女をも、全てを失う。心の亭主に泣きつくのも面白い。

 彼女は知らずに死んでいった、旦那が全てを失ったことを。もう障壁はどこにもないのに__彼女は身体を、旦那の子を殺す。ここに『ロミオとジュリエット』を感じた、マーキューシオとパリスがロミオとジュリエットの情事を知らずに死んでいったことを。いつの時代もなにかを知らずに、或るいは知らされずに死んだ者は語り継がれるのが歴史の常である(オイディプス王のように)。