『キートンの探偵学入門』(1924/バスター・キートン)覚書2021/8/27

 キートンの身体性のコメディに勝てるものが他にあろうか? ベタすぎるギャグもキートンの身体性によって超一流品となる、彼が作家でなくて誰が作家なんだ?

 冒頭、床に散らばったゴミ山に1ドル札を落としたという人が二人来る、キートンは泣く泣く自らの1ドル札を差し出す。三人目に男が来る、彼にも1ドル札を差し出すと彼は首を振り受け取らない、男はゴミ山を漁り財布を取り出すとなかから大量の札束が。男が立ち去るとゴミ山を一心不乱に漁るキートン。王道コント。

 バナナの皮を床に投げ、恋敵にこっちに来いと手招きするキートン。彼はやって来ない。キートン彼のもとに向かっていく、ここでバナナの皮を踏んで滑るんだが一回転して皮が宙を舞い吹っ飛んで行くんだな。この身体性の威力はとんでもない、これこそ活字が成し得ぬことだ。観客のイメージを身体性が超えること。

 列車の接続付近に立っているキートン、後ろから列車が接続しギリギリで避けるキートン、いくらなんでも危なすぎる。上に上がった踏切の遮断機の頂点に捕まり降りてそのまま車に乗り込むだとか、走る列車の上を走り接続部を飛び越え水槽のパイプに捕まり降りると水浸しになるだとか、彼が監督であるから誰も文句は言えないけども危なすぎる。こんなんやられたら誰も勝てっこないよ。

 バイクのハンドル部分に乗って爆走するのもクライマックス付近の線路を渡るシーンなんかはコマ撮りっぽいけど砂をかけられるシーンとかはマジで運転しているだろうし、身体性もさることながら逃げるキートンが男の開いた鞄に飛び込んで消えていくトリックショットだとかしかけも凄い。映画内映画という設定を守ってセットが剥き出しなのも楽しいし、もうこの時代で映画は確立されてしまっているんだな、本当に。

 キートンベストの声が多いのも納得、『キートンの大列車追跡』(『キートンの将軍』)においてはモンタージュのギャグ(例えば大砲のくだり)が主流でこれも一流なんだが、本作のギャグは身体性に留まり、映画そのものを横断する、映画内映画のモンタージュ__スクリーンそのものが舞台と次々に入れ替わるお楽しみ、しかしこれらは物語の語りの機能の一つにすぎず、はっきり言ってどうでもよいと言ってもさしつかえなかろう。本作のラスト、映写窓越しにスクリーンと目線を交わすモンタージュ__これはとんでもない。

 多くの優れた映画は物語の内容そのものではなくモンタージュによって、モンタージュそのものの演出こそが輝いているものだ。それは『折鶴お千』の宙を舞う折鶴であったり、『山椒大夫』の水面に広がる波紋であったりする。

 しがない映写技師のキートンと、スクリーン上のヒロインの視線が映写窓をプリズムとして交差する。これは感動した、全米が泣いたとはこのモンタージュの別名である。

 北野武はまず一つのシーンが思い浮かび、そこにどう持っていくかで映画を組み立てて行く。本作はその頂点に位置する作品ではないか。この素晴らしき視線の交差。

 

「映画というのは実際は、物にそそがれる、各瞬間ごとに新しい視線のことなのであり、したがって映画は、物に働きかけるというよりはむしろ物を刺し貫き、物のなかにあって抽象化されることを待ち受けているものを捕獲するのである」p123『ゴダール全評論・全発言Ⅰ1950-1967』「古典的デクパージュの擁護と顕揚」

 

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