『戦火のかなた』(1964/ロベルト・ロッセリーニ)覚書2021/8/29

 ネオレアアリズモとは一体何だったのか? 戦火を劇で再現し、それにニュース映像をモンタージュさせたか? 素人を演出したとして、役者を演出するのと何が違うのだろう?

 冒頭、爆撃から始まるがこれはロッセリーニが制作し演じられたものだろうか? それとも単にニュース映画のフィルムを拝借しただけだろうか?

 『ドイツ零年』よろしく破壊された街でもキャメラを回すこと、このドキュメンタリー性こそが"ネオレアリズモ"なのか? いいや違う、モンタージュだ。ロッセリーニはドキュメンタリーではなくモンタージュの人間である。彼はリュミエール派ではなくメリエス派なのである。

 『無防備都市』のかの有名な倒れる女のモンタージュ、そして本作のニュース映像と劇映画のモンタージュ__最後の一遍なんかはかなり露骨な、悪く言えばロッセリーニの最も嫌うアメリカ映画的な戦闘なのだが冒頭と一遍が終了する度にモンタージュされる記録映画によって、あたかも劇映画がニュース映画かのような錯覚を起こす。

 確かにそれは面白い試みであるが、かなり危険というよりむしろ現代においてはマスメディアにより悪用され尽くされている。モンタージュ、人間の脳はとてもおバカなんだな、だからこそ映画を観て楽しむことができるんだけれども。

 2編目、黒人憲兵が人形劇(日本だと文楽?)で暴れまわるシーンは面白い、日本は映画も芸能も静かに鑑賞する文化だけども向こうじゃ全部スポーツ観戦のノリなんだろうか。日本人が大人しいというより言語そのものの特性による所が大きい気がする。

 3編目のラストの兵士がアドレスの書かれた紙を捨てるシーンは良い、よしんばかつての彼女がそこにいたとてもう彼女は変わってしまった、そして誰でもない彼自身が変わってしまったのだ。待つ女のショット__素晴らしい。

 一番好きなのが5編目、修道院の中でユダヤ教徒プロテスタントが混じっているとナチスなくとも迫害が始まるというこの皮肉。兵士のもてなしに対する謝辞で終わる。