『甘い生活』(1960/フェデリコ・フェリーニ)覚書2021/8/30

 アヌーク・エーメのシーンは全部良いな、流石に強すぎる。冒頭、キリスト像の空輸、ヘリの音越しの聞こえぬ声。フェリーニの映画はこの聞こえざる声をジェスチャーで読み取るような__ラストでも同じように声は届かない。フェリーニは我々に訴える、しかしヘリの雑音や距離の遠さを隔てて。フェリーニは我々に参加を訴えただろうか? イメージへの参入を? 我々が自らフェリーニの映画へ入って行くことを彼は待っているのか?

 男は銃を撃つようにしてキャメラのフラッシュを切るが、作家の夢を諦めきれずに居る。記者の仕事にはもううんざりだ。男への救いの手、君さえその気になれば出版社を紹介しよう__原稿はないというのに。

 男はカフェでタイプライターを打つが、店の少女との会話に脱線、ついにタイプの紙を捨てる。

 クライマックス、酔った男がメチャクチャに暴れる、そう『8 1/2』より祭りをやっているじゃないか雨のシーンであったり。フェリーニはしっかりクライマックスまで上げて来るんだ、それもアクションによって! そう、フェリーニは映像そのものによって、つまりアクションによってクライマックスまで上げてくるんだ、これは中々簡単にできるもんじゃない。

 ラスト、あのタイプ用紙を捨てたカフェの娘と対岸越しにジェスチャーを送りあうが互いの声は届かない、男は去り少女の顔のクローズアップで映画は終わる。冒頭のヘリの音と同じく、何かによって何かが隔たれている。

 少女の瞳はかつてのフェリーニ自身を見たか? 『8 1/2』よりこっちのが自伝的と言えるんじゃないか?