『すっ飛び駕』(1952/マキノ雅弘)覚書2021/9/6
ラストの暗闇に灯る提灯の大群に身一つで歩いて行く河内山の姿は『関の彌太ッぺ』に受け継がれているんだな、このシーンキマりまくっている。すっ飛び駕の歌を歌い男は死へ向かう。
現代の日本のテレビドラマはマキノの枠を未だ出られずに居ることがよくわかる。本作のリズムの雛形をいつまでなぞり続けるつもりなのだろう? 『痛快!河内山宗俊』にはそれらと違い発展した実りがあるのだが。
現代の腐ったテレビドラマになく本作にあるもの__一つ明確に言えるのは音だろう。河内山の「悪い」(ごめんだったか?)というセリフが次の外の景色に重なるだとか、屋内で暴れるシーンでセリフが飛んだかと思えば次のショットでは事の顛末を語る男のショット、それでもうなって……と見物人の語りとしての物語が再開する、これはジョン・フォードの『捜索者』と同じ語り方!
しかし本作の何より素晴らしいのは幕府の不正の騒動でもなければかつて目をかけてやった男の死でも娘の実らなかった恋でもない、ラストのすっ飛び駕を歌い提灯の大群へ一人歩く男のシーン__クライマックスの最高潮で終わること、マキノは映画の教科書である。