83日間の入院生活を終えて 2021/9/14

 入院日:6月21日 退院日:9月11日

 約三か月の入院生活が終わった。本当は退院日にブログをまとめるつもりだったのだが、9月に入ってからというものかなり気力が参ってしまい数か月毎日つけていた映画の鑑賞記録ブログも途絶えてしまった。

 退院前日までは一日一本映画を鑑賞していたのだが、9月に入ってからは途中で小一時間の休憩(仮眠)を挟むことが増え、時には寝落ちをしてしまうことさえあった。

 退院日が決定してから退院日までの一週間程の間、慣れ親しんだ病棟を去ることがどこか哀しくもう数週間は居てもいいとすら思えたものだが、退院して数時間でもう私は日常に適応してしまった。『春にして君を離れ』と同じようなことになるだろう、と退院前に考えたものだが実際にその通りだった。人は忘れることで生きていく。変化への希望すらも忘れて。

 そう、私は忘れられることがたまらなく寂しかったのだ。病棟内全ての看護師は私の担当を数周している訳で、そういった意味ではちょっとした有名人となった訳だが、そんな私が退院したところで私のベッドには代わりの患者が横になり、看護師の仕事が私一人分減る訳でもない。私が消えたベッドを初めて見た看護師は「あああの子退院したのかよかったよかった」と一瞬考えた後、直ちに目の前の患者への業務に取り掛かることだろう。私はそれがなんとも寂しくて哀しくてたまらなかったのだ。それは退院した帰りの車中で泣いてしまうほどであった。

 帰宅し自分の部屋に戻ると、あれほど入院中には模様替えをしようと画策していたさぞかし居心地の悪いであろう自室がこれほどまでに自分の肌身に合うものであったかと、これが人間の適応能力なのかと感心したものである。自分を正当化し精神の平静を保つために、私はどうやら病院外のことを目の敵にしていたようである。

 退院日、最後の荷物チェックとお見送りをしてくれた眼鏡とボザボザボブ(アメコミみたいで似合っている)が印象的な看護師さんに「長かったですよね、頑張りましたね」と言われた。顔見知りの掃除のお婆さんにも同じようなことを言われた。退院の祝福。

 入院中は生存権を第一に保護されている状態なので、何もせずとも自己肯定感を得ることが出来る。衰弱した身であるが故に彼・彼女らは私を丁重に扱い労りの言葉をかけてくれ、退屈しのぎに読書でもしようものなら(本当に他にすることがないのだ)また勉強熱心だと褒められたものだ。

 何もせずに褒められるというのは中々気持ちが良い。それが例え業務上の定型文であったとしても、少なくも気分を害するものではないだろう。人は嘘であっても褒められたい図々しい生き物なのだ。生きてるだけでまるもうけとは良く言ったものである。

 私はそれを失うのが怖くてたまらなかったのだろう。他者から肯定される機会を失うことが。とはいえ、退院した今だからわかることだが最後の一週間は本当にストレスで限界まで行っていたように思う。シーツの上の抜け毛がかなり増え目立つようになったのが決定的だった。それでもあと数週間は入院していたいと考えていたのは防衛本能からだろう。必死に自分を庇う私を見て、看護師は私に労りの声をかけていたのかもしれない。実際、若くいつも親しげに話しかけてくれる看護師さんにトイレまで歩いていると「大丈夫ですか?」と声をかけられたこともあった。後半、というか今まさにそうなのだがボーっとすることがかなり増えた。外見からでも十分わかるものなんだろう。

 空間にうんざりしていた。入院中に外の土を踏んだのは透析室に移動する際に歩く外廊下のみなので一時間にも満たなかった。トイレと洗面台を往復する様はさながら霊廟を彷徨う亡霊であった。

 幽閉された囚人もこうして抜け毛が増えて行くのだろうか。空間に縛られ身体に刺激がないことがこれほどストレスになるとは。

 10日の夜、担当看護師との会話。私が退院するのが嫌だ言うと彼女は

「なんで? 自由やん」「入院中はだらだらしていても許されるじゃないですか」

「そっち?(笑って)でもよかった退院できて、私も明日から夏休みだから」

「一緒に休みましょう」「そうね、一緒にね」

 帰宅してから「なんで? 自由やん」の一言が反芻し続けていた。そうか、脱出した外の世界は自由なのか。あれほど抑圧された中での自由を満喫していたというのにもう忘れつつあるあの輝かしき日々……本当に輝かしき日々であったのだろうか? もうボーっとして忘れてしまった。人は忘れることで生きていく。未来は長く続く。

 

f:id:Bodaybo:20210914203509j:plain

 

『すっ飛び駕』(1952/マキノ雅弘)覚書2021/9/6

 ラストの暗闇に灯る提灯の大群に身一つで歩いて行く河内山の姿は『関の彌太ッぺ』に受け継がれているんだな、このシーンキマりまくっている。すっ飛び駕の歌を歌い男は死へ向かう。

 現代の日本のテレビドラマはマキノの枠を未だ出られずに居ることがよくわかる。本作のリズムの雛形をいつまでなぞり続けるつもりなのだろう? 『痛快!河内山宗俊』にはそれらと違い発展した実りがあるのだが。

 現代の腐ったテレビドラマになく本作にあるもの__一つ明確に言えるのは音だろう。河内山の「悪い」(ごめんだったか?)というセリフが次の外の景色に重なるだとか、屋内で暴れるシーンでセリフが飛んだかと思えば次のショットでは事の顛末を語る男のショット、それでもうなって……と見物人の語りとしての物語が再開する、これはジョン・フォードの『捜索者』と同じ語り方!

 しかし本作の何より素晴らしいのは幕府の不正の騒動でもなければかつて目をかけてやった男の死でも娘の実らなかった恋でもない、ラストのすっ飛び駕を歌い提灯の大群へ一人歩く男のシーン__クライマックスの最高潮で終わること、マキノは映画の教科書である。

 河津清三郎は『次郎長三国志』の大政の印象が強すぎてなんだかね(単純に作品数が多いから)。

『赤い河』(1948/ハワード・ホークス)覚書2021/9/5

 やっぱりハワード・ホークスは天才なんだな、というかホークスの作品はどれも脚本が良く出来すぎているんだあまりにも。冒頭で彼女を置いて去るジョン・ウェイン、その姿が後の息子(跡継ぎ)の彼女に繋がってくる!

 冒頭、インディアンとの格闘で川に飛び込むジョン・ウェインの身体性!

 一時間付近、赤い河に到着した際の牛の大群の大移動! これこそまさに動く絵画じゃないか、美しすぎる。この運動量、画面の強さったらもうね。脱走する牛、線路を横断する牛、牛の大群とインディアンを動かすこの運動量の画面力たるやいなや。

 老いて白髪になったジョン・ウェインは(アル中)頑固爺さん、それは誰よりも彼自身が理解しているんだ深い所では。

 ジョン・ウェインの演技力、本気で跡取りを殺すつもりの卑劣な大男そのものなんだなこれが、これがなきゃクライマックスまで持っていけない。持続が続かない。このジョン・ウェインの背中は勝新がかなり影響を受けているんじゃないかと睨んでいる。

 別れのシーンなんか本当に怖い、後ろには俺が居ると思え、背中に気をつけろ。

 彼女は彼に訴える、というかウェインの方が先に察するんだな彼女は置いていかれたと。何故なら自分もかつて彼女を置いて行ってしまったから。

 ウェインの告白、自分には息子が居ると思っていた、しかし居なかった。彼を跡取りにするつもりだと。

 この自分と同じことをやって相手に気づかせるってのも脚本の王道だよね。アニメ『Boys be...』の最終回なんかまさにそうで、彼女と同じことを主人公にやらせて彼女の追体験をするような形で主人公に理解させるという。

 そしてクライマックスの殴り合いからの彼女の説教! マジで発砲しちゃうんだから凄い。そして14年前の約束が叶う、お前の稼ぎだと牛の烙印にMを書き足すジョン・ウェインの指1 んでTHE END、ちょっと面白すぎるでしょ! ハワード・ホークス大好きだな徹頭徹尾本当に文句なしに面白い映画を撮ったのは彼かヒッチコックくらいなもんでしょう。素晴らしい。

『人情紙風船』(1937/山中貞雄)覚書2021/9/4

 画面がとんでもなく暗い、ここまで画が暗い映画、それも日本映画じゃ中々ないでしょう。フィルムノワールのそれとも違うんだな、これが長屋の暗闇の実景なのだろうか? 落語の長屋もここまで暗いのだろうか。

 "人情"というタイトルがついていながら恐怖映画という。人情の本来の意味はこんなもんなのか? ラストの短刀を持ち、灯が消え、次のショットで内からのキャメラ、見物人がこちらを覗いていて「心中だ」と。このリアクションとモンタージュ、ホラー映画じゃないか。和製ホラーですよこれは。

 ドラマを描かぬこと、死を解釈せぬこと。毛利への頼みは一体何であったのか? そんなことはどうでも良いのだ。何故なら冒頭での首吊り死体と二人の死は何ら変わらぬものであるから、いやむしろ二人の死によって冒頭の首吊り死体に解釈が与えられたといえようか。

 ただそこには死のみがあるということ、シェイクスピアの言うように、人生は春の夢にすぎず、死とは夢から覚めるだけだ。ただそれだけのことで。

 ラストに流れる(下水?)紙風船は良い、我々も所詮流される紙風船にすぎないのだ。本作が山中の遺作となったのも実に奇妙であり、しかしどこか納得してしまう節がある。これも解釈をいくらでもこじうけられようが、山中は死に、そして我々、私も死ぬ。二人の死は冒頭の首吊り死体と同じく手向けを送られたのだろうか?

 しかし映画は終わる。人生と同じことだ、天国は待ってくれても死は待ってはくれないのだ。

『南部の人』(1945/ジャン・ルノワール)覚書2021/9/3

 ルノワールがちゃんとアメリカ映画をやっているじゃないか! パーティーのシーンなんか実にアメリカ調でよろしくやっている。というか脚本がそうなんだろうな。農業と水ってのはルノワールに撮らせて正解だね、彼こそ自然、大地と水なんだから。

 しかしいくら水のルノワールとは言えども牛を救出しようと洪水で濁流した川に流される二人の男ってのもなんだかヘンテコでおかしく面白い。そこがまた実にルノワールらしいというかね。

 ルノワールに限らず、たいていの映画では(最近観た溝口の『ふるさとの歌』然り)川に飛び込む時ってのはどうして服を脱がないんだろうと。小学校の時に着衣水泳の授業を受けたもんだからシャツとズボンくらいは脱ぎ捨ててから飛び込む映画があっても良いんじゃないか? それだけ冷静でないという表現なんだろうけども。にしても映画ってのはどうしても衣を濡らしたいんだな、これも欲望の体現なんだろうか。観客が求めているから? かつて男が足を観に宝塚へ通った時代があったように。

 ラスト前、家に帰ってくる二人の男の足取りのショット、泥まみれの大地を二人の足が歩くショットと家の前での主人公の顔のショット、動くと後ろのトラックが見えるあのショットがかなり好き。パーティーのシーンもかなり良かったな。

『歌麿をめぐる五人の女』(1946/溝口健二)覚書2021/9/2

 冒頭の腕試しのシーンで歌麿の手元は見えず紙に視線を送る人物(見物人)らのバストショットが続き、そして歌麿らが去り、相手だけが残り愕然と紙を見つめるショット、そしてやっと次に肝心の絵のショット! 素晴らしい、これが映画なんだな。昨日あまりにも酷い映画を観たばかりに涙が出てくる。

 『溝口健二著作集』において溝口は映画を日本の絵巻物と絡めて論じていた。例えば雲で余計な部分を隠した構図が描かれていたりと__。

 画面設計、ショットを撮れる監督というのはそういうことなんだろうな。このシーンだけでも溝口の才能を堪能できる。

 ラストの田中も良い、旦那への当てつけではなく本当の自分の恋をした彼女。自分の恋の為に二人殺すなんて滅茶苦茶なんだがこれをやてしまうんだな溝口は、田中の一人立ち歩く顔のクローズアップも良い、他はまあボチボチだけども。

 冒頭の腕試し、そうモンタージュはショットの集積物なのだ。

『さらば、わが愛 覇王別姫』(1993/チェン・カイコー)覚書2021/9/1

 フィルマークスで信頼できる星4.2以上の映画ってのは総レビュー数が~数百のシネフィル連中でしかアクセス不可能な映画であって、本作のような五千超えの映画ってのは見えている地雷なんですね。まあ普通に突っ込んで見事に撃沈した。三時間を返せ。

 ここまで酷い映画はかなり久々で、やっぱり最近の映画は信用ならない。古典を観ましょう、皆さん古典を。もう最初の三分で全部ダメ、全くノレない。

 ショットってもんがない。歴史もこの語り方は酷すぎる。『悲情城市』を観たことがないのかチェン・カイコーは? HHHから何を学んだんだ? 肝心の京劇のシーンも全てダイジェスト、のくせに学生運動だとかはみっちりやるという。

 溝口健二の『楊貴妃』が如何に優れているかがよくわかる。彼は演劇をカットしないし、あれだけ贅沢な時間を映画に割いておきながら90分という驚異の尺。短いに越したことはないのだ映画ってもんは。『悲情城市』はむしろ短いくらいで。

 映画でやっちゃいけないことを全部やったクソ映画ってことでパルムドール受賞したんだと思われる。それか政治。特に酷いのが金魚鉢のシーン前で牡丹停のダイジェスト。これはダメでしょう、三時間で何をやっとんだ? 溝口の『残菊物語』すらも観たことがないとしか考えられない。本当に酷い映画ってのをかなり久々に観た。三時間返せ。