『砂の女』覚書

 ヴェーラでゴダールが熱狂! と謳われた本作。なるほど確かに海のシーンがあるな、しかしその構図は『山椒大夫』でなく『蜂の巣の子供たち』に近い。そちらは山頂でこちらは砂漠だが。

 昆虫採取に出かけた男は、砂漠に住む部落の男たちに嵌められ家に積もる砂を延々と掻き出す強制労働を強いられる。その家は砂漠の崖の下にあり、降りてきた縄梯子は外され脱出することが出来ない。男は幾度か脱走を試みるが、どれも上手くいかない。地上に出ても追っ手に捕まり戻されてしまう。男は渋々住人の女と労働に勤しむ。

 男は女に語る。自由な世界の素晴らしさを、都会の幻想を、ラジオだってあるんだぞ。女は笑って「砂がなければ構ってもらえない」と漏らす。彼女にとって砂こそが自身のアイデンティティであった。

 このシーンが顕著な例だが、本作からはかなり時代の香りを感じ取ることが出来る。戦後の混乱と、安保闘争を経た作家たちの匂いを。

 男はシーシュポスの神話に準えることが出来るだろう。男は教師という職業を奪われ、砂の世界に生きることを強いられた。しかし男は、ある偶然から砂漠の地で水を生成することに成功する。男はこれを誰かに話したくてたまらない、それも部落の人間以上に適した人間は居ないだろう、と。

 男は砂漠から脱出する決定的なチャンスを得る。しかし、男は前々から熱望していた「海をみる」ことを終えると自ら縄梯子を下りて行った。男はそこにアイデンティティを、自己を確かに確立したのだ。男は自慢の水を確認すると崖のショットに映り、男の失踪宣告の書類が重なって終の文字。

 本作は悲劇の形式を借りた自己の確立を描いた物語である。そしてその射程には安保闘争後の虚無感があり、それは後の『燃えつきた地図』ではなおさら強調されることになる。そして『燃え~』は本作以上に人間を肯定しているとも言えよう。燃えつきた地図を生きる我々につける名前があろうとなかろうと、いったい何の違いがあると言えよう? それでも人は忘れられぬ名前を自分につけたがる、勅使河原や松本らが芸術で表現したように、男が砂漠の水を発見したように。