にゃるらのnote読んで『ロープ』をちょっとだけ観た2020-10-29

 6時 起床。ネットサーフィンをしながら目を覚ます。

 

note.com

 にゃるらのnoteを読んだ。インターネット有名人らは偉いな、とつくづく思う。彼らは一般社会のラットレースから弾かれたけれども

 

そりゃ誰だって自分を馬鹿にした人間を見返したい気持ちとかありますし。自分を卑下すればする程、共感と称賛を得られる場があるなら挑戦するじゃないですか。

 とあるようにインターネットでエネルギーを燃やし続けているのだから。

 私は既に衰弱しきった取るに足らぬ人間なので、別に共感や賞賛はいらなければそもそも物心ついた頃から自分の人生を他人の人生のように見放して生きている節があり、どうでも良いからこそ少しでも消耗しない道を常に選択して生きて来た。

 人並程度の承認欲求はあれどもそれだけの為に社交に興じる彼らが(一般社会も含む)全くもって理解出来ない。せいぜい『ゲームの規則』や『ドルジェル伯の舞踏会』でそれらを学ぶのが関の山だ(それらはとても楽しいものだが)。

 私は本当の意味で両親に愛されていると感じる、つまり無償の愛に他ならない。

 母は時折愚痴を挟みながらも私の人生にかける期待のウェイトを弟の方へ移しているようだし、父はと言えば元来何もこちらに要求しない。中学を不登校になった時は

「俺がお前に勉強しろと言ったことあるか?」と放ち、高校も別に行かなくても良いと返答が帰って来たことに当時はショックを覚えたものの、思い返せば私はつくづく愛されているのだと感じる。それは私が長男であり、父が九州の''昔ながらの''家で育った人間であることも大いに関係するだろうが。

 『ねほりんぱほりん』ホスト回の再放送の録画を観た。ホストに貢ぐ彼女らは逆に無償の愛が理解出来ず、家庭環境からか尽くした愛情(金)の分だけ愛が帰って来るのが気持ち良いんだとか。なるほど、私とは生まれた星がまるで違う。

 

不幸になればなるほど、良い文章が書ける気がするんです。

  確かに歴史に刻まれた書物は紛れもなく不幸と残虐性を内包しているけれども、かといって自分が不幸になればそれだけ良い文章が産まれるとも思えない。それはラディゲの言うように

 

ひとは絶対によりうまく書くこともできなければ、よりへたに書くこともできないからだ。

  私も何度実家を飛び出し浅草辺りでひっくり返ることを夢見たか、バイトも映画も本も全てうっちゃってしまって放浪出来たらどれだけ良いことか。出来る筈がないのだけれども。

 7時『おはスタ』を観ながら朝食をとる。

 8時 出勤。

 12時 昼休憩。一旦帰宅し録画した『ねほりんぱほりん』のホスト回後編を観る。

 16時 退勤。眠いしなんだか痒い。

 17時 シャワーを浴びてヒッチコックの『ロープ』を観るも眠いしなんだか痒くてたまらん、諦めて大人しく横になる。

 19時 起床。なんだか母が仕事に疲れて怒っているようなので寝たふりを続けているとなんだか機嫌が良くなったようだ。愚痴は無反応に限る。

 20時 BSの『なんでも鑑定団』を観ながら夕飯。

 21時 チャンネルをカチャカチャ回してやり過ごす。

 22時『脳ベルSHOW』を観る。

 23時 『WBS』を観る。

 0時 ネットサーフィン開始。また図書館に行きそびれた、明日はメルカリの発送をして映画の続きを観て、かなり余力があれば教習所のことをちゃんと考えよう。寒くてちょっと頭が痛いな。