『さらば愛しき大地』について【1982/柳町 光男】

 映画的な演出が排された(これもエドワード・ヤンや小津といった実に映画的な演出なのだが)田舎の風景と男女が淡々とキャメラに収められてゆく。

 肉体労働者同士の給料を博打で分け合う等、これぞリアリズムと言わんばかりの演出が光る。それは今村やスコッセッシの対極に位置し、それらの劇画的な要素を持たずして薬物や幻聴といったものが生活の、ある田舎の肉体労働者の一行為として描かれ、針を腕に注入する(本当に入れている)行為も彼にとっては煙草を吹かすようなものでしかなく、決して退廃的な世界でござれとは言わずにショットが重ねられて行く、これぞ時間芸術と言わんばかりの映画だ。

 本作は所謂サブカルチャーにおいて顕著なジャンルものとしての’’薬物’’とは一線を画すだろう。それらは退廃的な時間を退廃的に描くが、本作ではある田舎町全体に流れる時間のごく一部、即ちキャメラの収めた範囲にのみそれらの時間が流れるからだ。

 かといってそれらのジャンルもののファンはむしろそういった類の演出を排したもの、つまり本作のような風土のものを好む場合も大いに見受けられるだろうが。

 エドワード・ヤン小津安二郎は実のところ一作品も観たことがないのだが、予告編や散りばめられた断片、そちらから私に飛び込み''鑑賞させられた''ショットや嫌でも目にする彼らの文献から考えるにそれらと本作はかなり近い場所に位置する。

 つまり、本作も紛れもない映画なのだ。エドワード・ヤン小津安二郎もジャンルのうちの一つでしかない。そして本作がより近いのはヤンであろう。

 小津安二郎のショットは実に映画的なものだ。それらも一様にして映画のジャンルであり、言葉を発すれば政治に属すように、映画のショットもまたジャンルに属すのだ。

 それにしてもクレジットタイトルを抜け殻と化した田舎町のショットに重ねる演出は良い。北野武の『3-4x10月』を彷彿とさせる。この映画的な世界は我々が目を逸らしたとしても、その中で時間は進み続けて行くのだ。クライマックスの幻聴が聴こえる演出や、サービスエリア?の食堂のシーンも好きだ。

 

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