『非情城市』(1989/侯孝賢/ホウ・シャオシェン)覚書2021/8/23

 初HHH、160分ながら全く尺の長さを感じさせない。空間に文字通り固定されたキャメラ、これが持続どころか永遠ですらあるかのようなショットのリズムを刻む。

 空間にキャメラを固定すること、視点を窃視するのではなく観測者となること、即ち神となること。

 男は写真を撮る、しかし我々は彼の身振りしか視界に入らない。撮られたであろう写真はどこへ行ったか?

 『その男、凶暴につき』だか『ソナチネ』だかの元ネタがあると有名な本作だが、該当シーンはすぐにわかる。トイレ内でのナイフの乱闘を、次のショットで廊下からドアから出て来る二人を映すショット。というか乱闘をロングで撮るのもHHHじゃん。拳銃のバンってのを手元を暗くして誇張せずにさっとやるのもHHH。ラスト付近の語らないのもかなりたけしが継いでいる。たけしを新しい表現とか軽々しく褒めると映画あんまし観てないのバレちゃうよね(押〇守とか)。『3-4x10月』『みんな~やってるか!』があるからたけしが天才なのに異論はないのですが。

 ロングショット、空間に固定されたキャメラ。同じポジションからのショットの反復によって歴史が語られる。かのグリフィスが言ったように、歴史の授業としての映画。中高の社会科で本作を観られたらどんなに幸せだったか。

 語り、耳が聞こえない、文通によってテクストが画面に表示される。それはサイレントの、グリフィスの語りの方法を見事に復活させている__素晴らしいことだ。『ディアローグデュラス/ゴダール全対話』だかでデュラスが言っていた(と思う)ように、サイレント時代の語りは現代の方法で復活させなければならない。

 彼女の日記という語り、これだけではオフの声しか使うことができない。画面上にテクストを表示させ、物語を進行させる手段として"耳が聞こえない"ことを制約としたのは素晴らしいアイデア。目が見えなければ声での進行になってしまう(『按摩と女』等)

 ショットもそもそも小説的__いや、空間的だ。キャメラを空間に固定することによって、その空間は一枚のキャンパスと化し、映像は"描写"される。それはまさしく動く絵画である。ロングショットもそう思えば合点が行く、そしてクライマックスの写真!

 最後には我々にも現像された写真が開示される、固定された写真が。しかしそれすらも彼女の語りによって__これも素晴らしい。ここまで緻密に穴を塞いでくる。語りの映画、歴史を語るということ。

 HHHの才能に完全にノックアウトされてしまった、ここまで映画を創りたくさせる映画も中々ない。俺も映画創りてえなあ。本当に。