『CURE』(1997/黒沢清)覚書2021/8/2

 よく食べる映画、よく飲む映画。横移動する映画。歩く、動く、歩く、話す、話すにも何かしらを食べていたり、手にしていたりする。酒を、たばこを、コーヒーを。そして歩く。歩いてキャメラを動かしている。

 ライターの火、水。主人公は大して食べない、食べ物を粗末にする。生肉を投げたり、食事の乗ったお膳を放り投げたり。投げる、投げる__ファミレスで食事を残す。

 しかしラストシーンでは完食し、コーヒーとたばこまで楽しんでいる。食べない男・棄てる男が食べるようになる。それは本当の自分になったから? それは異化効果のようなもの__食べる、食べない、それはどちらも行為、即ちアクションである。

 間宮の家に訪れるシーン、クレーンのショットが素晴らしい。映画監督は神の仕事と誰かが言った、まさにこのショットのことだ。神の視点、身体一つでは見えざる視点を、キャメラが盗み固定する。行為を決定すること、責任を背負うこと。

 投げる、告白する、ライターをつける、しかし雨が降る、雨漏りが滴る、そういうえば雨も水であったな__この快楽!

 心理学者の「深入りしない方が良い」この台詞は主人公への言葉? それとも『素晴らしき日曜日』のように観客への言葉? 

 首吊りと同じように、彼もまた何かを見たようだ。何を? 自分を? 本当の自分とやらを? 伝道師は催眠を伝道した? 男は洗礼を受け、本当の自分になってやっと飯を食うようになる。

 精神科医「あなたの方が病気に見える」「働きすぎ」労働≒病気? 労働を捨てよ、飯を食おう。俺は実践中だ。