『散り行く花』(1919/D・W・グリフィス)覚書2021/7/28

 Amazonプライムビデオにて鑑賞。

 グリフィスは本作においてサイレント映画の文法を確立させてしまった、それは第一に写真とテクスト(字幕)によって物語を語ること、第二にショットの連続で語ることを__そして運動、鞭でリリアン・ギッシュがはたかれるシーン。男が鞭を当てる、次に男が鞭を振るうバストショット、そこにリリアン・ギッシュの姿はない。そしてまた彼女が叩かれるショットに戻る__このアクションの省略は映画において今もなお健在している。

 

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 『子供の四季 秋冬の巻』を観てみよう。子供が木を揺らす→木から見下ろす→揺れる木→子供のクローズアップ→落ちる木→足場が崩れ落ちる子供→木に手をかける子供、手が木から離れ落ちる→木から見下ろすショットに戻ると、落ちた子供に駆け寄る子供たち。

 この子供が実際に木から落下したのではないのと同じように、リリアン・ギッシュも鞭を振るう男のバストショットにおいて、画面外で実際に鞭で打たれている訳ではない。しかし、観客は落ちる子供と同じように、彼女は鞭で叩かれたと認識する。ここにモンタージュが、即ち映画を映画たらしめる言語が存在する。

 

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 スタンリー・キューブリックの『シャイニング』において、逃げる女を追って男が斧で扉を破壊し、室内を覗き込むシーンがある。これのオマージュとしてシェストレームの『霊魂の不滅』(1921)が挙げられているが、そもそも『霊魂の不滅』のこのシーンこそ『散り行く花』のオマージュではないか。ショットは違えど密室に逃げ込む女、斧で扉を破壊するというシチュエーションは一致している。

 そして『散り行く花』が遥かに二作を凌駕しているといえるのがその該当シーンもモンタージュである。二作は斧を振るう男と室内の怯える女という二つのショットの反復のみなのに対し、グリフィスはそれに加えて銃を手に走る青年のショットを挿入するのだ! この映画的感性たるやいなや、私はただ辟易とするばかりである。

 ボクシングはチャップリンの『街の灯』を彷彿とさせる、グリフィスの運動__そして何より私の目を見張らせたのはボクシング帰りの父が青年宅に突撃するシーン。

 二階に上がるとベッドで横になっているリリアン・ギッシュ、そして父の顔のクローズアップ、次にリリアン・ギッシュのクローズアップ、そしてさらに近づく父の顔のクローズアップ__悲劇=クローズアップという文法までもが、グリフィスの発明であったとは! 『裁かるゝジャンヌ』が一体、どうしたというのだ?

 冒頭、初めての作り笑顔からしてそうだ、まず正面から室内を捉え、寄って、また戻って__そこにはリズムがある。ショットのリズム、キャメラのリズム、そしてモンタージュのリズムが__その上、グリフィスにはモンタージュのみならずアクション、映像としての運動がある。ボクシング、青年宅二階を木っ端みじんに粉砕する父の暴力、斧で扉を破壊し、リリアン・ギッシュを担ぎ出すとまた暴力__そして最後の作り笑顔。青年の発砲、彼は彼女を抱え家に連れ込み祈りを捧げるとあの遠き日の鐘のモンタージュ、そして自害する青年__。

 現代において、かつてのサイレント映画のように写真とテクスト(字幕)のみで物語を語ることは不可能だろうか? 人は文学と音楽の境界に映画は位置すると言うけども、それは現代映画ではなく失われたサイレント映画でなかったか? これ程までも美しいものが、文法が、リズムが、モンタージュが、映画が、なぜ忘れられてしまった、或るいは失われてしまったのだろうか?